使い古された名言の妥当性
“若い内の苦労は買ってでもしろ”とか“他人は変えられないけれど、自分は変えられる”とか
もうちょっと若いころは、「なにをそんな綺麗事を。けっ」なんて思ってましたよ
最近、急に仕事が大変になり、それと向き合う姿勢に変化がでてきたことを感じるようになりました。自覚として
今の上司、「考える」ということが全くできない人物で、それに由来して自分で思考せねば先に進まないという状況がとても増えました
正直な所、これがとってもしんどい。というか、大変だなぁ難しいなぁと感じています
僕自身、考えるをサボり続け、大きな困難からも逃避しつづけ、ここまで来てしましましたからね
僕も結構いい年で、決して若くは無いですが、このタイミングでこういう状況が降ってきたことは幸運、と思っています
おそらく、上司がなんでもかんでも的確にこなす性質の人だった場合には、このような危機感といいますか、自分で推し進める方法を考える、ということにはならなかったでしょうね
どういう風に言えばいいのかわからないけれど、前述の様な言い回しについて、あぁ確かにそういう解釈はできるのだなぁ、と肯定的にみる心が最近出てきました
ここで上げたのは一例ですが、それ以外にもそういう事はちょこちょこあるんです
つまり、ただの理想論、と言うよりかは、妥当性のある経験則、という捉え方にシフトしたわけです
僕は悲観主義的ですから、これから先、日本企業の多くがビジネスをうまくやっていく、という事に対して懐疑的に見ています
それを前提としての僕の気持ちは、“仕事”を続ける意思があるのであれば、個人として自己の成長について怠けてはいけない
僕は自己否定感も人一倍強いですし、頑張って価値を創出しなかれば存在意義が...っていう気持があるのかもしれない
なんていうんだろ
兎に角、今の悩みっていうのは、物理的な多忙から来るものとはちょっと性格が違くって、乗り越えた場合に獲得できるものが一生モノなんんじゃないかっていう気がしています
だから、しっかりと向き合いたい
うーん、最近なんというかこんなことばかりかいているなぁ
でもまぁ、今はそういう時期なんだなと思ってます
ちょっと忙しいけれど、それを言い訳にしないで、非会社環境での学習も怠けないようにしていきたいって思います
僕は仕事に対して根拠なしのガティブな感情は持っていないつもりだし、誰かの役に立つことを自覚できる仕事ができる力をつけたいな、とも思っていますから
“忙しい”にも種類があると思いますが、今忙しいと思っている人がいるのならば、適切なやり方で思考した上でそうなのか?を自身に問うてみてもらいたい
不必要な忙しさなのであれば、それをやらずに済む方法を考えるべきだし、それが健全と思えるものであれば、必要な苦労なのだと思って乗り越えてほしいなと思います
今の自分に向けてのメッセージでもあるよね、これは
ブログを書き始めてもうすぐ3年
どういう人がこの文章を目にしているのでしょうかね
伝わるものかそうでもないのか
読めば時間の無駄、という場合が多いでしょうか
相変わらず、自己完結的な域をでない残念
とにかく、もうちょっと四苦八苦してみようと思います